「レット・イット・ビーつうしん」は、「普通」と思われていることが出来なくて苦しんでいる人、そして、そのような人と関わりを持っている人に向けて編集されているものです。現時点では、不登校、引きこもりという言葉を中心に編集しています。この「つうしん」についての感想・要望・批判などがございましたら、是非ご連絡下さい。
「不登校」「引きこもり」のような言葉の重みは、人によってまちまちです。これは、「不登校」「引きこもり」などに悩まされている人の考え方、受け取り方によって違ってきます。また、周囲の受け取り方によっても大きく違います。
当然、このような状態になってしまった時にはショックを受けて、事の重大性に押しつぶされそうになると思います。
しかし、その後、どの様に認識を変えていけるかは、人生はいろいろあるんだ、いろいろな人生があるんだと言うことを知ることが重要であると思います。これから少しずついろいろなことについて書いてみたいと思います。
このことに関連して、重要なことがあります。人それぞれ状況が異なります。ここに書いてあることがすべての人に当てはまるとは思わないで下さい。いろいろな考え方があり、自分にあった考え方を選んで下さい。自分に当てはまらない考え方を捨てることも重要です。
「不登校」と言う言葉に向き合っているとその原因の多様さに気付きます。しかし、興味深いところは、いろいろな原因によって不登校になったとしても、その原因を追求し、その原因を取り除くことが、登校再開の鍵とは必ずしもならないような気がしています。
たとえば、友人関係のトラブルで学校に行くことが難しくなって、1〜2週間休んだとしましょう。このようなときに、その友人との仲直りがあったとしても、再び登校することは容易なことではありません。これは、ある原因でもたらされた学校に行かない状態が、その原因よりも重くのしかかってしまうからと考えられるときがあります。「学校に行っていないと言うこと」そのことが、重くのしかかってくるのです。
特に、日本のように「和」を好み、「異質」を排除する傾向が強く感じられるような社会において、一度でも「異質」となってしまうことは、かなりな心理的なプレッシャーを負うことになります。つまり、「世間の目」「他人の目」が非常に気になるという状況です。フランス人で哲学者のM.フーコーは、我々現代人の行動をコントロールしているものは、「視線(gaze)」であると考えました。我々は、この視線をどの様なときにでも感じているため、誰がいなくても普段と同じように振る舞うのです。
この「視線」のことから考えてみると、学校に行かない状態であり続けることは、この「視線」に絶えずさらされていることになります。この「視線」は、非難の目で見続けるのです。このことは、学校に行かなくなった子供を持つ保護者であれば、保護者へに対してもこの「視線」があると感じられると思います。日本では、「世間の目が怖い」「世間様に申し訳がない」という意味で使われる「世間」と言う言葉も同じような意味を持っています。
また、この「視線」「世間の目」が大きな成果を上げているのは、これが「恥」と言う感覚を巧みに使っているからです。「恥」ということは、この社会にとって時には「死」にも匹敵するほどの力を持っています。そこまでいかなくても、自分が他の人と同じではないという感覚は、日本の社会において相当苦しいことは想像できると思います。
この「恥」を操る「視線」を乗り越えて学校に復帰することは、子供により差は当然ありますが、そんなに容易なことではありません。
この「世間の目」「視線」に対抗するためにはどの様な方法が考えられるでしょうか。思いつくことを書いてみますと、(1)一人で戦いを挑むのは難しいので、同じ悩みを持った人が集まりたすけあっていくこと、(2)この世にあるいろいろな人とのことを知ることにより、いわゆる「常識的な事」「正常な事」がこの世の極々一部のことしか見ていないと言うこと再確認すること、(3)隠すことと「恥」は密接につながっているので、オープンにしてしまうこと、などが考えられます。もっと他にも考えられると思います。是非、このようなことを話し合える友人または配偶者と考えて見て下さい。
第二次世界大戦時に、ドイツに捕虜として捕らえられていた精神科医にフランクルという人がいます。この人は、捕虜としての体験をもとに本を書き、人生上の困難についていろいろ語っていますので、ご紹介します。
すなわち、われわれが人生から何を期待できるかが問題なのではなくて、「むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである。(中略)すなわちわれわれが人生の意味を問うのではなくて、われわれ自身が問われたものとして体験されるのである。人生はわれわれに毎日毎時間問いを提出し、われわれはその問いに、詮索や口先ではなくて、正しい行為によって応答しなければならないのである。人生というのは結局、人生の意味の問題に正しく答えること、人生が各人に課する使命を果たすこと、日々の務めを行うことに対する責任を負うことに他ならないのである。(フランクル、1961、183頁)」
このような状況について、一人一人を自分と言う物語の俳優にたとえています。そして、俳優は、王様とか乞食とかの、その地位や名誉によって評価されるのではなく、どのようにその役を演じたかによって評価されるのであるとしています。この発想は力づけられるところがあります。現在において、人の評価は、学校時代の成績に始まり、学歴、肩書きなどによって決まってしまうかのように感じられます。しかしながら、その人の人生をどのように演じるかが大切であるということであれば、職種・学歴・肩書きは意味をなさなくなります。これは実際にドイツ強制収容で起こった話です。「最後の最後まで問題であり続けたのは、人間でした。『裸の』人間でした。この数年間に、すべてのものが人間から抜け落ちました。金も、権力も、名声もです。もはや何者も確かでなくなりました。人生も、健康も、幸福もです。すべてが疑わしいものになりました。虚栄も、野心も、縁故もです。すべてが、裸の実存に還元されました。(フランクル、1993、13頁)」
フランクルの文章を読んで自分に問われていることは、大きな事であると感じます。しかし、不登校、引きこもりという問題が人生にあるということは、フランクルの言葉からすれば、「本質」ではありません。本質でないものができないと悲観することはないと、フランクルの本を読んで感じました。
V.E.フランクル「夜と霧 − ドイツ強制収容所の体験記録」霜山徳爾訳、みすず書房、1961年
V.E.フランクル「それでも人生にイエスと言う」山田邦男・松田美佳訳、春秋社、1993年
『笑う不登校』編集委員会編
教育史料出版会刊、1999
ISBN 4-87652-371-1 定価1500円
内容(「MARC」データベースより)
「学校」から自由になって、家庭で育つ子どもたちとの暮らしは驚きと発見に満ちている。「要は、自分に合った生き方をすればいいのだ」と気付いた、子育てと自分を楽しんでいる20人の親たちの手記。
目 次
1章 こどもたちの日々
2章 さまざまな「学び」
3章 自分をふりかえりつつ
4章 「しごと」と「こども」の間
5章 それぞれに・それなりに
この本は、学校に行くことができなくなった子供を抱える家庭の話です。親の視点から、それぞれの親の言葉で、子供の不登校に直面してからの心境の変化、子供の変化、そして、考え方の変化などが書かれています。それぞれが費やしてきた時間についても読者は知ることができます。また、日々の生活に接している保護者にとっても最も重要な、日々の生活状況についても書かれています。それぞれの子供により違いがあります。どの不登校が良くて、どの不登校が悪いということなどありません。この本によって、同じ問題を抱える家族のことをかいま見ることができると思います。
不登校に関連する社会の動向を知ることができます。不登校に関連する法律、裁判、問題提議など保護者も学校関係者も目を通す価値があると思います。
このわずか四行ばかりのお祈りですが、日々の生活において、物事の考え方において、このお祈りの意味を照らし合わしてみるとその深さに驚かれると思います。
「神様、私にお与え下さい。
私に変えられないものを受け入れる落ち着きを、
私に変えられるものを変えていく勇気を、
そして、二つのものを見分ける賢さを。」
第2号 発行日:2004年3月
連絡先:narrativetherapy@ihug.co.nz
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