ニュージーランド・ハミルトン市にワイカト大学(The University of Waikato)があります。縁があって,この大学のカウンセリング大学院(Master of Counselling)で カウンセリングの勉強をしてきました。この大学院で,カウンセリングの理論についてはナラティブ・セラピーを中心に学びました。理論だけでなく,大学院一 年目には150時間のカウンセリング実習,二年目には450時間のカウンセリング実習があり,実践的なプログラムでした。ナラティブ・セラピーは,日本で も注目されている精神療法の一つです。単なる技法と言うよりは,精神療法のあり方を根底から問うようなものであるため,わかりにくいものとなっています。 そのため,このサイトで少しずつ説明をしていきたいと思っています。
ナラティブ・セラピーはポストモダニズムという潮流から生まれたといえる。ポストモダニズムは、今まであったものに対して、非常に批判的な視点を持ちながら、発展してきている。このため、ナラティブ・セラピーの根底には、絶対的な真理(Ground Narrative)に対する批判が含まれている。この絶対的なものを崩壊(Deconstruction)していくことによって、新たな個人の物語(ストーリー、ナラティブ)が生まれると考えているナラティブ・セラピストも存在している。
一方、日本では、物語の重要性については、河合隼雄らの貢献により早くから指摘されてきている。この視点が卓越していたため、日本の臨床心理、または心理療法のモダニズム化が回避されてきたのではないかと考えることもできる。欧米でこの物語の側面の理解の浸透は、日本人がいままで物語という視点で築いてきた幅を拡げていくことができる可能性を有している。
しかし、ポストモダンという潮流の中で、その理論的背景と今まで築いてきた臨床心理学が基本的に交えない部分も存在している。日本の文化は、このような根本的な理論の相違が実際的な行動に対して影響を持ちにくいと感じている。たとえば、日本人の宗教観では、根本的な戒律の差を超えて(または、無視して)宗教の融合が起こりえる。反面、旧約聖書を源流とする宗教(ユダヤ、イスラム、キリスト)において、どんなに表面上において類似点があっても「根本的な差異」は絶対的な断絶を生じている。そのため、他のカウンセリング理論との融合は、同じポストモダンを源流とするブリーフ・セラピー、またはソルーション・フォーカスド・アプローチに対して議論がなされているのみである。
ナラティブ・セラピーで、クライアントに対して、ロジャリアンの3つの原則を重要視しているが、ナラティブ・セラピーは、ロジャリアンとは対照的に新しい物語へ非常に「アクティブ」に参画していく。ここで、「指示的・非指示的」という次元ではなく、積極的に物語に参加していく。このため、「非指示的」なアプローチを取るカウンセラーにとっては、かなり異質なものに感じられると思われる。
カウンセリングにおいて、相談にきている人に対してどのような姿勢で臨むかについても多くが語られています。このことは主にモダニズムのカウンセリングに対する批判からもたらされます。要約すれば、カウンセラー・セラピストなどの専門家は、その専門性を維持する限り、その権威構造から逃れることができない。そのため、その権威構造を明らかにして、相談にきている人の持つ力や能力を再発掘していく必要があるとしています。このような姿勢を理解するためには、以下に紹介するような本を読み、その意味について思想してもらうことを期待する必要がありそうです。
ポストモダニズムにおけるいろいろな学問から
「モダニスト(近代主義者)と呼ばれるこれまでの立場がさまざまな方面から批判されている。そして今日では、「問題」を突き止め「治療」を施すといった科学的な改善方法への楽観的信頼はかなり揺らいでいる。(マクナミー&ガーゲン, 1997, p. 15)」
「批判的精神を持つセラピストたちは、現在支配的な治療論や実践方法の中に強い思想的偏向があることを見出した。精神医療の専門家が、政治的、道徳的、そして判断基準において中立公平とはいえず、治療行為を通じてある種の価値観、政治形態、特権を維持するよう機能しているという。(p. 15)」
「家族療法家たちは、個人の内部に機能不全が存在するという見方に対して異論を唱えた。つまり、「個人の病理」とされるものは、その家族(同居であれ別居であれ)の持つ何らかの機能上の問題が一人の家族成員に現れたものにすぎないことをさまざまな角度から示した。(後略)(p. 16)」
「コミュニティ心理学では、病気の背景要因を広く捉え、地域の教育制度、経済条件、労働条件、居住環境まで研究の範囲を拡大した。この観点に立つと「個人の病理」は社会生活のありようと無縁ではなくなる。(p. 16)」
「フェミニズムからは、今日の精神医療の実践が女性を抑圧し弱者の立場に追いやるものだという批判が出された。精神疾患の分類体系をはじめ、患者に対する軽蔑的な扱い、そして、女性が置かれた不当な社会的立場よりもその女性個人に責任を見出そうとする専門家たちの傾向等、これらは全てが男性中心の家父長制社会を支える結果になっているという。(p. 16)」
「現象学では、機能障害についての治療者の先入観(たとえば、専門知識)を取り払うことを試み、それによって患者の置かれた立場や行動を患者自身の言葉で理解しようとしている。(p. 16)」
「Constructivismをかかげる人たちは、<観察するものとされる者>(同, p. 17)という伝統的な区分に反論する。何が「現実」として見えるかはその生物有機体に備わった固有の器官の働きによって決定される。科学者といえども、決して観察対象から独立した客観的存在ではない。(p. 17)」
「解釈学からは、<患者の精神状態を客観的に分析できる治療者>という従来の考え方は誤りであるだけでなく、無知な者を煙に巻くものだとういう議論が出された。臨床の地検は、治療者自身が持っている想定によってほとんど覆い尽くされているという。(p. 17)」
「かつて精神科患者だった人々は、自分たちの組織を作って精神医療の専門家たちに対抗している。現在の疾患区分は患者を抑圧し、物のように扱い、人間としての品位を傷つけるものであり、専門家たちの職業的利益を守るためのものになっていると彼らは主張している。(p. 17)」
「何が「社会的現実」かを本当に知ることはできず、それゆえ、検定か統計や確率指数などを用いた伝統的な科学的研究は、もしそれが真っ赤な嘘でないとしても、ひとつの信仰であると彼らは述べる。(ホフマン, 1997, p. 27)」
「ケネス・ガーゲンは、自己を認知や感情といった言葉で表現される一種の還元不可能な内的現実として捉えるのではなく、「自己の社会的構成」[Gergen, 1985]として捉える説得力ある議論を展開した。(p. 29)」
「人間のパーソナリティに内部や人間集団の内部にあらかじめ決定された最適の発達過程があり、その過程をたどるのに失敗すると悪い結果を招くといった議論を展開することは次第に難しくなってくる。(p. 31)」
「ロム・ハレー[Harre, 1986]は、感情が人間の内部にあって識別可能な特徴と状態を持ち、それらは世界共通だという考え方に疑問を投げかけた。多くの人々は、自分が従っている感情についての知識も記録も持っていない。感情という概念を歴史的に見て比較的新しいものである。社会個性主義は、感情とは人々のコミュニケーション複雑な網の目の一部分にすぎず、内在的な特別の状態ではないと考える。(p. 32)」
「私は、人間に関する自傷に構造的な階層性があるという考え方に疑問を抱くようになった。たとえば、表面的な症状に対してその奥底にある原因、明らかな内容に対して隠された内容、顕在的コミュニケーションに対して潜在的コミュニケーションといったものである。(中略)もし、こうしたレベルや階層性や包含関係などというものは存在せず、それは互いに影響しあう異なる要因のセットであり、全てお互いに同等のものであり、ただ、われわれがそれを取り出して記述して階層的なものとみなしているだけだとしたら?(p. 33-34)」
「われわれが日常「本当」だとか「良い」とか判断するときの基準は、社会や人間関係の中に埋め込まれている。(中略)われわれの現実感は、「われわれが用いている言語体系によって導かれ、同時にそれによって制約されている」というものである。他者と自己、そして、世界をどう捉えるかは、人間の間で共有されている言葉のやりとりや語り方の習慣によって決まってくる。したがってたとえば、ある人間やある国の歴史を「実際に起こったこと」に基づいて記述することはできない。むしろ、ストーリーを物語る形式や物語の形式といった道具立てが先にあって、それが過去に当てはめられ形をなす。もし、物語るという昔ながらの方法を用いなければ、(たとえば成長や変化や失敗について、また、始まりと終りがあり独自の理論展開を持つ物語について)納得のゆく説明はできないだろう。(マクナミー&ガーゲン, 1997, p. 19)」
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